これは「東京交響楽団 東京芸術劇場シリーズ第100回感想・あるいは「宇宙戦艦」抜きの「ヤマト音楽」という「もう1つの世界」論」の続きです。ここで書いた「第2世界」という用語を説明無しに使うので、先にこちらを読んでください。
また、あくまで私の感想を書いたものなので、内容を信じてはいけません。
さて、実は「第2世界」について考え始めたとき、重大なことに気付きました。
交響組曲宇宙戦艦ヤマトが扉を開いたと解釈した「第2世界」ですが、実はアニメの名を冠しながら直接的にアニメと関係がない最初の音楽はこの交響組曲宇宙戦艦ヤマトの最終曲である「スターシャ」であると気付いたからです。
この曲は、最初に聞いたときは本当に面食らいました。アニメの宇宙戦艦ヤマトで使用されたいかなるメロディーも含まず、もちろん未使用曲や没曲でもありません。ヤマトに関する音楽として作られてはいても、ヤマトとの接点が全くありません。つまり、一種の「イメージアルバム」的手法です。
これは、交響組曲宇宙戦艦ヤマトは偶然にも扉を開いてしまったのではなく、有自覚的に「第2世界」を作り出すべく周到に用意された深慮遠謀の成果物ではないか、と考えられるのです。
なぜそのように考えられるのか、といえば交響組曲宇宙戦艦ヤマトのライナーノートの「スターシャ」に関する部分が明らかにそれを指向しているからです。
以下、その部分を引用します。
西崎 いやァ、宮川さん、ほんとにいいメロディかくね。
宮川 (テレて笑う)
西崎 まじな話、ぼくはあなたと同じ世代に生まれてよかったと思ってる。いくらプロデューサーが、自分の気持ちのなかにメロディを持っていても、それを曲として表現出来ないわけだし、それをぴったり表現してくれる作曲家と出会えたということは、たいへん幸運なことだと思うんですよ。ぽくはもう15年もプロデユーサーやってるけど、こんなパートナーはめったに出来るものじゃない。
宮川 そう改まって言われると困っちゃうけどこの曲なんかも、何かファンに軽く一曲サービスといった気持ちでつくったんだけど……。
西崎 この曲にもやはり、いまの人聞が失ないかけている、人間がいちばん大切にしなければいけないものが、すべてはいってるような気がする。スターシャは、すごくファンタスティックで、人間味のようなものはあまり感じられないけど、スターシャの持っている美しさ、ファンタスティックなものに非常にぴったりした音楽ですね。だから、あなたは最初『さよならヤマ卜』と題名をつけていらっしゃったけど、これはやはり「スターシヤ」のほうがふさわしい。
宮川 うーん。つくったときは、かりにヤマ卜が自分のあこがれの女性だとしたら、「ヤマ卜、あなたと別れてェ…… 」てな下世話な感じでつくったんだけど、だんだんスターシャっていう感じになってきて……。
西崎 あなたは、ふだんテレビなんかに出ると、すごく下世話な部分を表に出すけど、本質的にはやはりたいへんなロマンチストだしネ、人聞の情感を大切にして生きてる人でしょう。下世話につくろうとしても、最終的にはきれいになっちゃうんだよ。
宮川 ふーん、そうなっちゃうのかなァ。
西崎 それが、宮川泰の音楽性の特徴ですよ。
宮川 ともあれ、ファンのみなさんにどれだけ満足していただけるか。前のBGだけで再現してほしかったとか、「あれッ、イメージと違うな」と思う人がいるかもしれないけど、何が故にシンフォニーの編成を選んでつくったかということを、わかってほしいな。
西崎 困苦しく、音楽性を高めたとしては、聞いてほしくないよネ。
宮川 そうなんだ。
西崎 クラシックだって、ポピュラーだって、音楽であることには変りない。これは、シンフォニーの形を生かした宮川さんのメロディとして聞いてほしいな。
まずここで注目すべき点は、「ヤマト」という単語はあっても、「宇宙戦艦」という言葉は無いことです。
次に、「軽く一曲サービス」の意味です。宇宙戦艦ヤマトのファンに対するサービスであれば、劇中で使った曲をサービスするのが常識的な対応でしょう。しかし、新規に一曲作るというのは、作曲家による音楽の聴き手に対するサービスです。
次に、題名が「さよならヤマ卜」から「スターシャ」に変った、という点も大きな意味があります。この2つは、作中では全く意味も位置づけも異なります。それにも関わらず、作っているうちに変るというのは、まず「音楽ありき」のスタンスであることを示します。この文脈における「ヤマト」は既に「宇宙戦艦抜き」なのです。
そして、最後の西崎さんの言う「シンフォニーの形を生かした宮川さんのメロディとして聞いてほしいな」という結び言葉は決定的です。つまりこれは「宮川さんのメロディ」として聞かれるべきものであり、この結語には既に宇宙戦艦はおろかヤマトという単語すら出てきません。
まさに、音楽を世に送り出す「手段」としてアニメが使用された形であり、このLPの最終曲を聴き始めてしまった者達に対しては、もはやヤマトを語る必要は無いわけです。
ちなみに、西崎さんがここで最初に述べていることは「宮川さんとの出会いという幸運」であり、ここで話題になっているのはやはり「宮川さん」です。
松本零士と西崎義展の確執とは何か §
このように考えると、実は松本零士と西崎義展の音楽に対するスタンスは決定的に相容れないほどに異なっており、幻想軌道のような松本零士の音楽世界コンサートとは全く異質な西崎義展的なヤマト音楽コンサートがあり得るのではないか、と思えます。そして、交響曲宇宙戦艦ヤマト(ヤマト交響曲)とは西崎義展的なヤマト音楽コンサートの実現したものであり、「東京交響楽団 東京芸術劇場シリーズ第100回」というコンサートはまさにその路線の延長線上に位置づけられるものだと言えます。
このように考えると、全く同じ劇場で、『日本フィル第184回サンデーコンサート・交響組曲「宇宙戦艦ヤマト」A面再生プロジェクト』から一ヶ月も経たないうちに交響曲宇宙戦艦ヤマトが演奏される理由も分かります。それは必要とされる別個のものなのです。
さて、具体的に松本零士と西崎義展の違いとは何でしょうか?
松本零士とは基本的にクラシックのファンであり、音楽の起点はここにあります。素晴らしい音楽を作ってくれた宮川泰には感謝していると思いますが、個人的な感想でいえば、そこから更に踏み込んで宮川音楽に対して何かをしよう……という態度までは感じられません。
これに対して、西崎義展は上記のライナーノートの文章を見て分かるとおり、ヤマトという仕掛けを経由して宮川音楽を世に送り出すことにも意欲的です。
大ざっぱに要約してしまえば、松本零士から見た宮川泰は自作品の支え手であるのに対して、西崎義展にとっての宮川泰は宮川自身の価値を世にアピールすべき存在であったとも言えます。
別の言い方で要約すれば、松本零士にとっての音楽とは世界から作品に向けてエッセンスを吸収していくものであるのに対して、西崎義展にとっての音楽とは作品を苗床にしてそこから世界に羽ばたいていくべきものだった、と言えるのかも知れません。
この2つはどちらが正しいとも言えませんが、この2人が仲良くできないのも当然の成り行きだな……と思えてしまう解釈でもあります。
余談・西崎義展的交響組曲「宇宙戦艦ヤマト」コンサートはあり得るか? §
あり得ると思います。その場合どこに差が出るかといえば、おそらく2曲目でささきいさおが歌わない、という形で実現するのだろうと思います。それはそれで良いと思うし、私も聞きたいと思います。
というか、ささきいさおにはもっと別に歌って欲しい歌がいくつもあるし。彼の見せ場はここではないような気もします。